後藤利兵衛橘義光の人物概略
初代「後藤利兵衛橘義光」は、安房の代表的な宮彫り師で、木彫刻の名手といわれ、文化12(1815)年、南房総市千倉町北朝夷に大工 山口弥兵衛の子として生まれ、幼名を若松といいました。
幼少の頃より彫り物に天賦の才をあらわし、14歳の時に高さ4尺の大黒天を刻み、人々を驚かせました。その作品は、現在南房総市千倉町川合の愛宕神社に祭られております。
江戸京橋に住む宮彫り師 後藤三次郎橘恒俊が、文政年間に長狭(現在の鴨川市)の社寺造営に訪れた際、山口若松(義光)は三次郎に入門し、数年後師に代わり「後藤利兵衛光定」の名で神奈川県横須賀市浦賀の西叶神社の社殿彫刻を彫り名声を上げ、後に故郷の千倉の西養寺の向排彫刻を刻みました。この頃から「後藤利兵衛橘義光」と称したと思われます。
義光は30代頃に鎌倉で活躍をして妻を娶り、40歳の頃千倉に帰郷し、45歳の時南房総市千倉町谷津の円蔵院の欄間彫刻を彫り、館山市の鶴谷八幡宮の向排格天井を刻み、続いて鋸南町の妙本寺、鴨川市竜性院の向排彫刻を刻みました。50代には、千倉周辺の寺社をはじめ、各地の山車や屋台の彫刻を盛んに刻んでいます。80歳の初め頃、現在の館山市青柳に移り住み、明治35(1902)年に88歳で亡くなりました。なお、お墓は南房総市北朝夷の西養寺にあります。
義光の作品は、その作風は総じて荒仕上げの中に優しさがあり、木目を巧みに生かした美しさは見るものを引きつける力を持っているといわれています。現存する作品は、大小数多くありますが、建物の様式によく整合しており、社寺建築の文化性を良く残していると言われています。義光は竜を得意とし、向排・虹梁などに玉取り竜が刻まれているほか、屋台の破風飾りや山車・神輿の欄間にも多く見ることが出来ます。また個人所有の大黒天像なども多数確認することができます。